KINUKOについて

27歳で結婚した。

初めて、自分からお茶を入れてあげたいと思えた人だった。

彼は脱サラして海外に住みたいという人で、結婚後に私は公務員を辞めた。カンボジアへ渡り、不動産を買い、賃貸に出した。東南アジアを一緒に旅した。ベトナムでシルクと出会い、オーダーメイドの服を作り、買い付けをした。海外でものを買うとき、原価はいくらか、日本でいくらになるか、自然と考えるようになった。スモールビジネスを自分で持つことを、頭の片隅に置くようになったのもこのころだ。

でも夫婦の営みはなかった。子どもを望んでいたのに、叶わない日々が続いた。モラルハラスメントとも呼べる言動も重なり、30代前半、離婚を選んだ。

前夫と出会ったことで、職を失い、傷ついた。でも同時に、多くのことがひらけていった。あの経験がなければ、今の私はいない。

離婚した日、母にこう言った。「これはいつか必ず糧になる。糧にしてやる」と。

その後、父の車を借りて東京から長野、石川へとひとりでドライブ旅をした。それから東南アジアをバックパックで3〜4ヶ月ひとりで回った。傷を抱えたまま、動き続けた。


帰国してから、婚活を始めた。

マッチングアプリ、友達の紹介。会っては違う、会っては違う、を繰り返すうちに心が疲れていった。そのころ、職場では新規事業の立ち上げが重なり、残業続きの日々が続いた。仕事と婚活を掛け持ちしながら、30代半ばになっていた。

結婚相談所に切り替えた。5ヶ月で20〜30人と会った。有力候補だと思っていた人から交際終了を告げられた。その直後、父が亡くなった。婚活の最中だった。

仕事と、家族の悲しみと、婚活と。昼休みに涙を流したことを、今でも覚えている。

それでも動き続けた結果、再婚相手と出会った。結婚相談所で。


再婚後、すぐに妊活を始めた。体外受精に進んだ。

1回採卵して、3回戻した。

1回目、着床しなかった。卵の質が悪いのだと、絶望した。2回目、2つ戻して着床した。でも最初の受診で「小さい小さい」と言われ、消えてしまった。夫が泣いた。3回目、着床して数週間育った。でも心拍が聞こえなくなった。掻爬手術の痛みで気絶して、着替えの最中に倒れた。

卵がなくなった。もう一度採卵するか、ふたりで考えた。でもまた希望が見えたところで打ちのめされることに、耐えられなかった。複数のクリニックを回ったが、言われることが正反対だったりした。そして知った。体外受精で一人の子どもが生まれるまでに、平均1500万円かかると。いくら払っても、我が子を抱ける保証はない。ふたりで、やめることにした。


外に出られなくなった。

当時住んでいたのが家族寮だった。外に出ると赤ちゃん連れに出会う。子どもの声が聞こえてくる。リビング側にいられなくて、反対側の部屋に閉じこもった。体育座りのまま、動けない日があった。眠れない夜が続いた。

あるとき、よく見ていたYouTuberが妊娠していた。泣いた。夫が「大丈夫だよ」と言った。大丈夫じゃない、と思った。「死にたい」という言葉を、よだれを垂らしながら呪文のように繰り返した。

心療内科に連れて行かれた。先生が夫にこう言った。「体外受精で授からなかった女性は、生きているのが地獄のようなものです」。その言葉で、少しだけ楽になった。

反対側の部屋のベランダで、家庭菜園を始めた。何かに気持ちを向けていないと、いられなかった。夫がお風呂で使えるラジオを買ってきた。大きめの音で流しながら、お風呂に入った。


体外受精をやめてから、別の道を探し始めた。

特別養子縁組を考えた。台湾での卵子提供も視野に入れた。並行して登録手続きを進めた。でも夫の家族からは「末代までの恥」と言われた。「養子をもらって周りから尊敬されたい気持ちが透けて見える」とも言われた。夫の母は半狂乱になった。

それでも説明しに行った。動き続けた。

コロナ禍で研修が思うように進まなかった。そのあいだにお金の本を読み漁り、資産形成を始めた。公務員を辞めて以来、スモールビジネスへの意識は持ち続けていた。お金が少しずつ、確実に膨らんでいった。

そして、一人目の子どもがやってきた。自然妊娠だった。


子どもが生まれてからも、しばらくは怖かった。

体外受精のとき、何度も消えていった命を見てきたから。いつ死んでしまうかわからない、という恐怖がなかなか消えなかった。それが薄まっていったのは、子どもが1歳になるころだった。

40代になって、年子と双子で、子どもが3人になった。

そのころ思った。自分にできることをしたい、と。

結婚相談所での婚活がよかった。子どもがほしいなら、マッチングアプリより結婚相談所だと、身をもって知っていた。お金もかかると知っていた。躊躇してマッチングアプリをやり続けたことを、後悔すらした。だからこそ、迷っている人の背中を押したかった。

婚活カウンセラーになった。


現在43歳。

6人が猫の額ほどの家で暮らしながら、婚活カウンセラーとして、そしてKINUKOとして、ここに書いています。

離婚した日に母に言った言葉は、本当になりました。すべての経験が、糧になりました。

カンボジアには今も不動産を1軒持っています。あのころ身についた原価思考と、動き続ける習慣が、今の仕事の土台になっています。

ひとつだけ、付け加えます。

27歳の結婚式で、司会の女性に不意に聞かれた。「子どもは何人欲しいですか」。咄嗟に答えた。「3人」と。

20代のときの夢が、40代で叶いました。


婚活カウンセラーとしては、内山亜希の名前で活動しています。
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