子どもが幼稚園に入って、はじめて宗教講座に参加した。通っているのがキリスト教系の幼稚園で、月に一回、保護者向けの講座がひらかれているらしい。どんなことをするのかまったく想像がつかなくて、少しドキドキしながら会場へ向かった。行ってみたら、予想とはちがう体験が待っていた。
目次
「しんり」ってどういう意味ですか?
その日のテーマは、アブラハムの話だった。アブラハムとは旧約聖書に登場する人物で、神に選ばれた民の父祖とされている人だ。遊牧をしながら生き、何度も試練を受けながら、それでも神への信仰を失わなかった、というような話だったと思う。
そのなかで「しんり、という言葉の意味を、今一度考えてみてください」という話が出てきた。
しんり。
漢字でどう書くんだろう、とまず思った。「真理」かな。それとも「神理」という字があるのかな。どちらもあまり使ったことがない言葉で、説明を聞きながら「あれ、そういう話、さっきあったっけ……?」と少しぼんやりしてしまった。
信仰を持って育っていない分、背景知識が圧倒的に少ない。話の流れは追えても、深いところまではわからない感覚がずっとあった。頭の中で「知らない単語」フラグが何度も立った時間だった。
みんなで声に出して読む時間があった
講座の途中で、文章をみんなで読み上げる時間があった。礼拝や聖書朗読に近いもの、という感じだと思う。プリントが配られて、その場にいる全員で声に出して読んだ。
内容は、こういうニュアンスだった。「わたしは罪を犯しました」「どうかお許しください」というような言葉が並んでいた。正確な文章は覚えていないけれど、自分の罪を認めて、神に赦しを求める、そういう文章だったと思う。
読みながら、少し戸惑った。これは何に対して言っているんだろう。この言葉を声に出すことで、何が変わるんだろう。そういう疑問が、読み上げているあいだずっとわいていた。
「罪を犯した」って言わないといけないの?
読み上げながら、頭の中で「?」がずっと続いた。
罪って、なんだろう。わたし、今日なにかした?昨日は?ふつうに過ごしていたつもりだったけど。「罪を犯しました」という言葉が、自分の実感とまったくつながらなかった。
キリスト教には「人は生まれながらに罪を持つ」という考え方があると聞いたことがある。これを「原罪」という。だから神に赦しを求めることが信仰の中では大切なんだ、ということはわかる。でも、知識として知っていることと、実感として腑に落ちることはちがった。
ふだんの生活の中で「これが悔い改めるべきところだ!」と意識しながら暮らすのって、マイナス思考にならないんだろうか、とも思った。毎日自分の罪を数えながら生きるのはしんどそう、と感じてしまったのだ。慣れの問題なのかな。それとも、まだあまりにも知らなすぎるせいかな。そのあたりは、まだ自分の中で答えが出ていない。
知らないことが多い、と知れた
講座が終わったあと、なんとも言えない気持ちを抱えて帰ってきた。
違和感、というほど強くはない。でも、すっきりもしない。「うーん」という感じが残った。
これは慣れの問題なんだろうか。何度も参加しているうちに言葉の意味がわかってきて、自然に受け取れるようになるのかな。それとも、宗教的な背景をほとんど知らないから、ぴんとこないだけなのかな。
どちらもあるかもしれない、と思っている。知識が増えれば見え方も変わるかもしれないし、くり返しの中で体感が生まれることもある。まずは「知らないことが多い」と気づけたこと自体が、この日の一番の収穫かもしれない。
月一ならなんとか。毎週はきついかも
正直な感想を書くと、月に一回でよかった、と思った。
知らないことが多すぎて、話を聞きながらずっと頭をフル回転させていた。エネルギーを使った。疲れた、とまでは言わないけど、なかなかの集中力が必要だった。
毎週あったら少し大変かもしれない。それが正直なところだ。
でも、子どもが毎日通っている幼稚園がこういう文化を持っているんだということを、自分の目と耳で確かめられたのはよかった。子どもはどんなふうに受け取っているんだろう。帰ってきたわが子に、少し聞いてみたくなった。
はじめて参加した宗教講座は、予想よりずっと濃い体験だった。「?」がたくさんわいてきて、そのまま持ち帰った感じ。信じること、許すこと、悔い改めること。すぐに答えを出さなくていいけど、たまにこうして立ち止まって考えてみることも悪くないと思った。次回の講座も、行ってみよう。
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